養老孟司さん著「骸骨考」。「身体巡礼」に続く骸骨編。
ヨーロッパ(ここでは南欧)には骸骨を何千体もこれでもかと祀った寺院がいくつもあるらしい。そこを回って養老さんがぶつぶつ考えたことが書かれている。なんでこんなもんを遺したのだろうか、何を考えていたのだろうか。
今回養老さんから受け取れたものは、英語の主語「I」がなぜ省略されないかと日本語の意思決定の状況依存という対比。
英語のIは「 I play tennis.」のように動詞の語尾変化があるので、「play tennis.」としても主語が誰かも含めて通じる。なのになぜIを省略しないか。それは
「(他でもない)”私”が、テニスをする」
という「私=I」の存在を常に確認させる仕組みになっているのだと。他にも「tea or coffee?」と聞かれるのも最終目的は受け手へのサービスではなく、それを決める「私=I」が存在することを確認させるためなんだと。
対して日本語の世界では、物事が決まる(≠決める)のは、自分も含めた周り全体の状況や成り行きの総合結果として、目の前にあるように「決まる」んだと。
確かに学生に「志望動機」を書かせると、「私は⚪️⚪️したい」から始まらずに、日本全体の評論分析のような他人の言葉が文全体の80%くらい連ねられて、最後にちょこっと「私の気持ち」が書かれる。実に日本文化を継承している。
逆にいうと大学や会社の面接でそれまでの人生で経験したことのない、「私」を全面に押し出す西洋的心遣いを、いきなり演じろという無理難題をふっかけられているとも言える。この2種類の文化が日本社会に混在して存在していることを、きちんとオトナが教えてあげないと、不器用な生徒はいつまでたっても面接に落ち続けることになる。と過去の自分にも教えてあげたい。
骸骨は何も言わないから養老さんはその前で自由に息をついて、考えることが出来るそうな。